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20060521-19:58 コメント (2) トラックバックする
すみません、よけいなお世話かもしれませんが、問題検討の時に「強」だの「姦」だのという画数の多い字を書くのはあまりに無駄が多いのでは…
ゴとかカとか、○とか△とか、せめて236とか177で充分では。
うーん、イシダも答練を通じて色々と試したんですけども、一番ミスが少ないのがこの方法なんですよ。問題文で使われている漢字と同じ一文字をメモすることで混乱しないと言うか。この方法に固定してからは混乱することも無く時間が足りなくなることも特に無いので、これがイシダに向いてるんでしょうね。
耐震偽装問題は「詐欺」事件として追及されるようですが、この場合の詐欺は「不作為の詐欺」というものだそうです。
不作為の詐欺とはどういうものでしょうか?
「不作為」とは「なにもしないこと」を意味します。通常の犯罪は「~した者は~に処する」という規定のされ方をしており、これは「ある動作をすること」=「作為」を取締まるもの。例えば殺人罪は
刑法199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
という規定ですから、刃物で切りつけたりとか鉄砲で撃ったりとか、そういう動作をすることによって犯罪を実現するのが普通です。しかし、「ある動作をしないこと」によっても、法が禁じた「殺人」という犯罪を実現したと評価できる場合があるのではないか…というのが刑法の不真正不作為犯という理論です。
殺人の例で言えば、「海水浴に行った際に自分の息子が足を釣って溺れているのに気付いた泳ぎの得意な父親が、『生意気な奴だから溺れ死ねばよい』と思い、助けようと思えば容易に助けられたにもかかわらず放置し、周囲にライフセーバー等も居なかった為に息子が溺死した」なんて場合に問題になります(教科書っぽい極端な例ですけど)。本来は作為の形で規定されている犯罪を不作為の形で実現することになるので不真正不作為犯と呼びます(一方、元から不作為を罰する形で規定されている犯罪は真正不作為犯と呼びます。例:不退去罪)。
一定の場合には不真正不作為犯を認めなければ、まともな取締りができません。とはいえ、結果発生につながるあらゆる不作為を罰しては、これまた処罰の適正化が図れません(先の例で言えば、父親がカナヅチだった場合にまで殺人罪だというのは行き過ぎでしょう)。そこで通説的には▼作為義務が存在すること(つまり、ある行為を行う義務があったのに敢えてそれを行わなかったこと)▼作為の可能性・容易性が認められること(やろうと思えば簡単にできたということ)▼作為の実行行為との同価値性が認められること(その行為を「しなかったこと」が、犯罪行為を「したこと」と同じだと言える状況だったこと)の3要件を満たす場合に限り不真正不作為犯を認める…と考えていきます。
先の例で言えば、親は息子の命を救う義務があると言えますから▼作為義務は認められますし、泳ぎの得意な父親には▼作為の可能性・容易性も認められます。そして周囲に息子を救ってくれそうな人が居ない状況でこれを見殺しにすることは、もはや刃物で切りつける場合と同程度に、息子の命が父親の行動いかんに依存していると言え、▼作為の実行行為との同価値性も認められます。
よって父親の「放置する」という不作為は「殺した」という作為と同じだと評価でき、殺人罪の成立が認められていくことになります。
この理論を耐震偽装マンションの引渡しについて考えてみると、▼作為義務については、売り物のマンションに住民の命にかかわりかねない欠陥があることを引き渡し前に知った売主には、これを買主に伝える法的義務があると言えます。▼そしてそれはマンション売買による儲けとマンション住民の命とを比べれば、すぐに買主に伝えることができたはずです。しかしそれを伝えなかったばかりに買主は「ああ、このマンションは価格通りの価値があるのだ」という勘違い状態に陥り(つまり騙されて)、契約を解除する機会も与えられないまま引渡しを受け財産上の損害を受けました。これは▼最初から詐欺的言動をもって顧客を騙しマンションを販売した場合と同じ状況だと言えます。
以上から、売主は最初から詐欺的言動をもって相手を騙した作為犯ではないにしても、すべきことをせずに詐欺という犯罪を実現した不真正不作為犯としての罪責を負う…ということになるのが、ニュースで報じられている「不作為の詐欺」という意味です。ヒューザー社長が引き渡し前に偽装を知っていたのか否かが大きく取り上げられているのは、予め知っていなければ不作為犯の成立が認められなくなるからなのです。
尚、以上とは別の事件でも不真正不作為犯が問題になりそうなものがありましたのでご紹介しておきます。小学生の男の子が車にはねられ、そのまま連れ去られて山中に放置されたという事件です。この事件の場合、当初は「男の子を病院に運ぼう」等と考えていたとしても、途中で怖くなって「このまま死んでも構わない」と犯人が思って山中に遺棄したのであれば、道交法違反や保護責任者遺棄どころか殺人未遂になると思います。
というのも、▼交通事故の加害者には被害者を救護する法的義務があると言えますし、▼救急車を呼ぶなり警察に連絡するなりすぐに出来たはずです。これをしていれば男の子の容態の悪化や命の危険も防げたでしょう。それにもかかわらず被害者を車に乗せてわざわざ人通りの少ない山中に放置するような行為は、もはやその加害者の行動いかんに被害者の命が依存している状態であると言え、▼殺人の実行行為との同価値性も認められるからです。
もっともニュースを見ていると被害者の男の子が乗っていた自転車が事故現場から随分離れた場所に捨てられていたとのことですから、加害者が「病院に運ぼう」と思っていたとは考え辛いですね。当初から「死ぬなら人目につかないところで」なんてふざけたことを考えて山中に放置したのであれば、その放置行為そのものが殺人の実行行為と言えますので不作為犯もクソもなくなりますが。
ご褒美に国からもプレゼント!!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060509-00000108-mai-pol
えー。
道義上のもののつもりで書きました。普通の道徳心があれば、儲けよりも人命を優先する判断が可能かつ容易だろうということで。
>マンション売買による儲けとマンション住民の命とを比べれば、すぐに買主に伝えることができたはずです。
この文章はマンションの儲けと命の利益衡量でどっちの利益が優先されるか、という意味ですか?
それとも道義上のもの?